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【コラム】「脳トレ」の価値

認知症の外来をしていると、「おすすめのドリルはありますか」と聞かれることがあります。「認知症には、何をすれば効果があるのでしょうか」という質問もよく受けます。

「脳トレ」は、今や誰もが知っている言葉です。書店にはたくさんのワークブックが並び、ゲームやアプリも数多く販売されています。「努力すれば能力は伸びる」「毎日少しずつ続けることに意味がある」という考え方が広く共有されている我が国では、「脳も鍛えれば若返る」というメッセージが多くの人の心に響いたのかもしれません。

筋肉はトレーニングによって鍛えることができます。では、脳はどうでしょうか。脳も筋肉と同じように鍛えられるのでしょうか。この疑問に答えるため、脳トレの効果を科学的に検証しようとする研究が世界中で数多く行われてきました。代表的なものとして、米国で行われたACTIVE研究が挙げられます。1998年に開始され、約2,800人の高齢者を対象に、記憶・推論・処理速度に関する課題を用いた5〜6週間のトレーニングを実施し、その効果を長期にわたって検証したものです。一部の参加者には、約1年後と3年後に追加トレーニングも行われました。この研究も含め、長年脳トレは、「訓練した能力には一定の効果があるが、認知症を予防するとまでは言えない」と慎重な見方が続いていました。というのも、訓練した領域では能力の向上・維持が認められた一方で、その効果が認知機能全体に広く波及することは示されなかったためです。

そして今年、ACTIVE研究の20年追跡結果が報告されました。その結果、処理速度を鍛えるトレーニングを受け、さらに追加トレーニングも受けた群では、20年間の追跡で認知症と診断されるリスクが約25%低いことが報告されました。認知トレーニングが認知症予防につながる可能性を示した重要な知見として注目されています。ただし、この効果はACTIVE研究で用いられた特定の処理速度トレーニングで認められたもので、その他のトレーニングでは認められていません。したがって、「どのような脳トレでも認知症を予防できる」と結論づけることはできず、今後さらなる検証が必要です。

世界保健機関(WHO)が提唱する認知症リスク低減のための指針では、認知症予防として認知トレーニングだけを勧めているわけではありません。運動、食事、生活習慣病の管理、社会参加など、生活全体を見直す包括的な取り組みを推奨しています。現在の科学が示しているのは、「脳トレは意味がない」ということでも、「脳トレだけで認知症を予防できる」ということでもありません。好きなパズルや計算、ゲームを楽しむことは脳への良い刺激になります。しかし、それだけに頼るのではなく、運動や人との交流、十分な睡眠、生活習慣病の管理なども含め、生活全体を健康に保つことが、脳を守るための最も確かな方法だと考えられています。

診療の現場では、「脳トレ」の価値をエビデンスだけでは語り尽くせないと感じることがあります。印象深い患者さんがいます。ある日、診察の終わり際に付き添いの奥様から少し遠慮がちに尋ねられました。

「先生、今日は何月何日か聞かないんですか?」

認知機能検査ではその日の年月日を尋ねることがありますが、認知症の患者さんでは答えられないことも多く、気まずい思いをさせてしまうことがあります。そのため、普段の診察ではあえて年月日は尋ねず、何気ない会話の中で認知機能の変化をみるようにしていました。その日は、奥様のご要望に若干拍子抜けしながら、「今日は何月何日ですか?」と尋ねてみることにしました。正確な答えが返ってきました。

「完璧ですね!」

そう声をかけると、表情が和らぎ、奥様も満足そうなご様子でした。よくよく聞くと、おふたりは日常的に「今日は何月何日?」のやり取りをしており、検査のときに間違ったのを大変残念に思ったそうです。検査後も毎日の日課として継続し、次の診察のときには答えられるようにしたい!とふたりの目標になっていたということでした。ところが主治医はなかなか聞いてくれない。それでこの日とうとう奥様が声をかけてくださったのでした。

なるほどそうだったのか、と気づきました。ご夫婦にとって「今日は何月何日?」は、単なる認知機能のトレーニングではありませんでした。病気になり以前より口数が減ったご主人と奥様をつなぐ、毎日の大切な会話だったのです。正しく答えられると奥様はほっとし、その笑顔にご主人も喜びを感じる。そして、「次の診察ではきちんと答えたい」という目標が、毎日の励みになっていました。

脳トレの本当の価値は、問題を解くことそのものではないのかもしれません。脳トレをきっかけにコミュニケーションが生まれ、小さな喜びを見つけ、目標を持って毎日を過ごす。そして、「今日もいい一日だった」と思える。その積み重ねが、人とのつながりや生きがい、自己肯定感につながっていくのです。脳を元気にするのは、ドリルだけではありません。様々なつながりの中で心が動くことこそ、脳にとって何より豊かな刺激なのではないか。あのご夫婦から教えていただいたように思います。

文責:認知症グループ

文献:

  1. Jobe JB, Smith DM, Ball K, et al. ACTIVE: a cognitive intervention trial to promote independence in older adults. Control Clin Trials. 2001;22(4):453-479.
  2. Coe NB, Miller KEM, Sun C, et al. Impact of cognitive training on claims-based diagnosed dementia over 20 years: evidence from the ACTIVE study. Alzheimers Dement (N Y). 2026;12(1):e70197.
  3. World Health Organization. Risk Reduction of Cognitive Decline and Dementia: WHO Guidelines. Geneva: World Health Organization; 2019
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